ゲーム情報&ブログ2.0

家庭用コンシューマーゲーム情報ブログ。任天堂、ソニー、マイクロソフト満遍なく取り扱っています。

スポンサードリンク

世界的なゲームデザイナーとして知られる任天堂の宮本氏が海外のガーディアンの特集インタビューに応じる、その内容とは?



世界的なゲームデザイナーとして知られる任天堂の宮本氏が海外のガーディアンの特集インタビューに応じる、その内容とは?としていて、その辺はどのようにまとめられているのかという話であって、パイオニアゲームを幾つも作った人ですね。


世界的なキャラクターとなった任天堂の「マリオ」を生み出した、伝説のゲームデザイナー、宮本茂(71)。同社代表取締役フェローである彼は、いまも現役でゲーム作りや、新たな事業に積極的に取り組む。そんな宮本の原動力はどこにあるのか、英紙「ガーディアン」がインタビューを通じて探った。
 
「任天堂」を世界的企業にした男
どれが任天堂のゲームかはその動きでわかる。『ゼルダの伝説』の主人公リンクの剣のいい振り具合、マリオのジャンプの重さなどだ。また、明るく、エネルギッシュで個性的な見た目も特徴的だ。シューティングゲーム『スプラトゥーン』シリーズでは、変身するイカたちがアリーナに光沢のあるペンキをまき散らす。主要キャラクターのマリオが身につけている赤い帽子と青いオーバーオールは有名だ。任天堂のロゴも同じ色合いの赤色である。

日本の百貨店を覗くと、色とりどりの任天堂のキャラクターが見つかる。『どうぶつの森』のキャラクターのキッチン用品、『スーパーマリオ』の手袋、ゼルダの財布やネクタイ、『ピクミン』の形の花瓶などだ。

一方、かなりカラフルなゲームに対し、任天堂本社は際立って地味だ。京都駅から徒歩30分ほどのところにある近接した2棟の白い中層ビルがそれだ。外壁にはグレーの任天堂のロゴがついている。受付の机にはマリオのぬいぐるみが入った小さなかごが置かれていたが、それがこのビルで何が作られているかを示す唯一の手がかりだった。上の階のほうが面白そうだったが、見学は許されなかった。

私が本社までやって来たのは、世界で最も影響力のあるゲームデザイナー、宮本茂に会うためだ。最初のドット絵のマリオをデザインし、そのゲームをデザインした人物だ。宮本は任天堂の他のヒットゲームも手がけ、さらに1983年のファミコン以来、任天堂のすべてのゲーム機の設計に携わってきた。同社は宮本のキャラクターを使ったゲームをこれまでに10億本以上販売している。宮本は、数世代にわたる子供の夢の設計者である。

宮本はゲーム界のスピルバーグ、任天堂はゲームのピクサーとよく呼ばれるが、本人はそうした比較を好まない。ここ10年以上はスポットライトを浴びるのを避けてきた。今回のインタビューも、1年以上の調整を重ねて実現したものだ。これまで何人もの同社クリエイターから話を聞くなかで宮本の人物像が浮かび上がってきたが、ステージの上で見せる笑顔の姿よりももっと怖い人物だと思われた。長老的な存在として尊敬されていて、すぐに判断を下すが、人をめったに誉めないようだ。

「変わった面白いことをやりたかった」
宮本は情熱的で好意的な人物だが、世界一有名なゲームデザイナーであるとは想像できないほど控えめでもある。黒いブレザーの下にマリオのTシャツを着た宮本には、写真撮影でマリオのぬいぐるみを持ってポーズをとってもらった。しかし、その後、彼は「カメラの前でパフォーマンスをする才能はあるけれど、カメラの前に立つのはあまり好きではないんです」と語る。

71歳の誕生日を迎えて数日後だったためか、宮本は過去をよく振り返った。入社したてのころの思い出について聞くと、「そのころの話を始めると、しばらく続くよ」と言う。1970年代に金沢美術工芸大学で工業デザインを学んだ宮本は、子供の頃から絵が好きで、漫画家として食べていくことを夢見ていた。

「同級生の多くは自動車や電機メーカーに就職していきました。でも私がやりたかったのは、変わった面白いことだったんです。そうして巡り会ったのが任天堂でした」

当時、任天堂を経営していたのは、創業者のひ孫にあたる敏腕実業家・山内博だった。彼はトランプメーカーだった同社を、電子玩具に変革させようとしていた。宮本が入社した1977年は、まさにビデオゲームの黎明期だった。

「私が入社した翌年、スペースインベーダーゲームが大ヒットしました。学生時代にゲームセンターで長い時間ゲームをしていたので、とても興味がありました。入社して2~3年目でチャンスをもらえたんです。そうして『ドンキーコング』を作りあげると、ゲームデザインが私の本当の仕事になりました」

アーケードゲームのドンキーコングは世界で大ヒットした。ゴリラとその宿敵であるジャンプマン(マリオの前身)という2つのキャラクターが登場するこのゲームを機に、任天堂は国際的な巨大ゲーム企業への道を歩み出した。

同社は1985年、米国でファミコンをベースにしたニンテンドー・エンターテインメント・システムを発売した。そのとき同時に発売されたゲームソフトこそが、宮本が同社デザイナーの手塚卓志と方眼紙でデザインした『スーパーマリオブラザーズ』だ。1992年にスーパーファミコンが世界各地で発売される頃には、任天堂は世界をリードするゲーム会社、宮本は世界を代表するゲームデザイナーとなった。

時間をかけて「楽しさ」を追求
宮本が他のゲームデザイナーと違うのは、彼が任天堂のゲーム機の設計にも携わってきたことだ。任天堂のゲーム機が常に私たちが遊ぶゲームに合わせて作られているように感じられるのは、こうした一体感のあるアプローチの結果である。ニンテンドーDSの『ニンテンドッグス』ではタッチスクリーンで子犬を撫でられ、『Wiiスポーツ』ではモーションセンサーを使ってボウリングをできる。

宮本はゲームやゲーム機のデザインした過去の詳細に語ると、満面の笑みを浮かべる。彼は大きなアイデアを持つ人物だが、楽しさも追求している。

「初めは大局的な視点に立ち、アイデアが斬新かを確認します。それから最後まで細部をブラッシュアップするのが好きなんです。ときには工場に指示をしてからも変えようとするので、『もういいです。充分です!』と言われてしまいます」

任天堂は製品の細部までこだわることでよく知られている。他のゲーム会社が株主の喜ぶスケジュールでゲームを急いで発表するのに対し、任天堂は時間をかけるのを厭わない。マリオやゼルダの大型の新作が出るのは5年に1度程度だが、その出来は素晴らしい。優れたゲームは何度も売れると宮本は言うが、初代『スーパーマリオブラザーズ』は何度も再発売され、6000万本以上が売れた。いまではスイッチでも遊べる。

宮本の原動力となっているのは目新しさだ。彼は任天堂に在籍した45年間、常に前進してきた。特にここ10年ほどはゲーム以外の任天堂の取り組みに多く携わっている。ユニバーサル・スタジオンのテーマパーク「スーパー・ニンテンドー・ワールド」や、2023年に大ヒットした「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」などだ。

「最近は自分のことをゲームデザイナーだとは思っていません。任天堂に新しいユニークな機会を見つけるのが仕事です。ここでは私たちは計画を立ててそれに従うのではなく、何かに巡りあってから自分たちの新しい道を見つけようとしています。

映画やアミューズメントパークは、今後どう発展していくか楽しみです。私はまだ映画業界には不慣れですが、最近は脚本をたくさん読み、それらがどのように作られるのかを学んでいます。そうして任天堂独自の映画をどう作れるかを考えているのです」


関連リンク



宮本氏ももう71歳ということで、任天堂はうまく世代交代をした感がありますね。当然宮本氏の功績と今後の取り組みに対し、ちゃんとサポートしていて、今後もまだまだ頑張ってほしいですね。

 [ゲーム]任天堂関連記事

スポンサードリンク